ふと、思ったの。
「わたしって、誰なんだろう」って──
あの夜だけは、答えが欲しかった。
SNSには輝く言葉。
周りには自信に満ちた足音。
それを横目に、ただひとり、
布団の中で何者でもない自分にため息をつく。
「なにかにならなきゃ」
「このままじゃ、取り残される」
「わたしには、何かが足りないんだ」
焦りの声だけが、胸の奥で響いていた。
でもその声の正体を、わたしはまだ知らなかった。
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの
目次
焦りは、未来からの呼び声かもしれない
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした
「何者かになりたい」
──その焦燥感は、
本当は過去からではなく、未来から届いた問いかもしれない。
理想と現実のあいだにあるズレ。
わたしはもっと、こんな自分でありたかった。
あのとき思い描いていた像に、まだ追いついていない。
でもね。
そのズレが苦しみになるのは、
いまの自分を否定してしまうときだけなんだ。
焦りの下には、必ず願いがある。
わたしはまだ、あきらめていない。
そう気づけたとき、焦りは敵ではなく、灯になる。
SNSで光る誰かを見た夜の孤独
キラキラした誰かの投稿を見て、
「わたしは、何をしてるんだろう」って思ってしまった夜。
比べたくないって、わかってる。
でも、心はつい、誰かの達成や役割と、
いまの自分を天秤にかけてしまう。
画面越しの成功や笑顔が、
わたしの空白を照らし出す。
だけど──
見えているのは、切り取られた断片。
わたしたちは、
誰かのハイライトと自分の舞台裏を比べてしまいやすい。
そんなときこそ、問いかけてみたい。
「いまのわたしは、どんな景色を歩いている?」
「表に出せないままの、わたしの願いはどこにある?」
「何者かになる」より、「何者かでい続ける」
「ちゃんとした肩書きがほしい」
「意味ある生き方をしていたい」
──そう思うのは自然なこと。
でも、何者かになるという願いが、
「誰かに認められたい」という外向きの視点ばかりになると、
わたしはすぐに測られる自分に苦しくなってしまう。
ほんとうは、
「何者かになる」よりも、
「わたしとして、あり続ける」ことのほうが、ずっと難しい。
誰にも見えない場所で、
わたしだけの問いを持ち続けること。
他人の道ではなく、自分の歩幅で歩くこと。
それが、名前や肩書きよりも、
ずっと深く何者かをつくっている気がしたの。
焦る夜には、名前のないわたしを抱きしめる
肩書きも、実績も、
わたしの存在を保証してはくれない。
深夜にふと目が覚めたとき、
心を支えてくれるのは、
称号じゃなく、沈黙の中に残っている自分だったりする。
何者でもない、名前のないわたし。
けれど確かに生きて、考え、感じているわたし。
焦る夜こそ、
その静かな存在と向き合うチャンスかもしれない。
「まだ見えないわたし」を否定しないこと。
「形になっていない願い」に、問いを置いてあげること。
その優しさが、
わたしを少しずつ、自分という輪郭に近づけてくれる。
問い直してみる。「わたしが大切にしたいものは何?」
焦りの中にいると、
他人の基準がどんどん自分の中に入り込んでくる。
でも──
本当に必要なのは、「正しい答え」ではなく、
わたしが大切にしたい問いを見失わないこと。
誰の声でもない、
誰かの評価でもない、
ただ「わたしの心が向かうほう」へと、
そっと導いてくれる問いが、必ずある。

セン(Sen)
「いま、わたしは何に惹かれている?」
「どんな日々をわたしらしいと呼びたい?」
その問いを大切に持ち続けることが、
何者かであろうとする努力より、
ずっと静かで、ずっと深い道になる。
すぐに答えは出ない。でも、問いを抱きしめた時間は……きっと意味になる。
「何者かにならなきゃ」
──そう思った夜は、たぶん、
未来のわたしが、遠くから呼びかけてくれていたのだと思う。
問いは、ときに痛みを連れてくる。
でもその痛みは、
「まだ歩きたい」と願っている証でもある。
わたしはまだ、
自分の輪郭をあきらめていない。
なるために走るのではなく、
あることに、ただそっと気づいていく。
焦りの夜にこそ、自分の声を聴いてあげよう。
名前のないままの、
やわらかいわたしと一緒に。





