自分の“声”が嫌いな人へ

暖かなランプの下、狐耳の少女センが机に頬杖をつき、自分の声が流れる録音機を見つめるシーン。表現への違和感と静かな向き合いを描いた室内情景。 A fox-eared girl named Sen rests her cheek on her hand, quietly gazing at a voice recorder under a warm lamp—capturing the tension between self-expression and self-rejection in a calm, introspective scene.

ふと、思ったの。
「わたしの声って、ほんとうに“わたし”なのかな」って──

録音された自分の声を聴いたとき、
思わず顔をしかめた経験、ない?

「こんな声じゃないはず」
「なんだか気持ち悪い」
「誰これ……」
そんなふうに感じてしまうたびに、
“自分という存在”が、少し遠くに感じられてしまう。

でも、それって……
もしかすると、“声”の問題じゃなくて、
「わたし自身との距離」の問題なのかもしれない。

今日はそんな、“自分の声が嫌い”という違和感を、
静かにそばに置きながら、少しずつやさしく触れてみたいの。

この記事を書いた人
セン

セン

・Webメディア運営13年目

・静かな問いを添える、“魂の共鳴選書人”

・運勢や開運の話が好き

・ラッキーカラー地味に気にします

・白檀(サンダルウッド)の香りが好き

・家を神社にしたいミニマリスト

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AIを通して、サクラや偽りの声は祓ってあります。あなたの直感が安心して響くように。

・I am a Japanese creator.

「こんな声じゃなかった」はなぜ起きる?

録音された自分の声を聴いて、
「これ、わたしの声なの……?」と、ふと立ち止まったことがある。
まるで、知らない誰かが話しているような、
少しだけ他人行儀な声──

そんな違和感の正体は、耳が“ふたつの音”を知っているから。

わたしたちがいつも聴いている「自分の声」は、
骨伝導と空気振動が混ざり合った、内側から響く音。
でも録音で再生される声は、“外から聴いた自分の音”。

その差に、脳が戸惑う。
「あれ? こんなに高かった?」「なんか軽く聞こえる」
──そう思ってしまうのは、ごく自然なこと。

けれど、問題はその“違和感”にどう反応するか。

ただの物理的なズレとして受けとめられる人もいれば、
「やっぱりわたしって変……」と、自己否定へつなげてしまう人もいる。

その違いを分けるのは、
“声”と“自己像”の関係性。

もしもあなたが、
「自分はこういう人間でありたい」っていう願いを強く持っていたなら、
それとズレた“声”を聴いたとき、
心の中で静かに、痛みが生まれてしまうかもしれない。

でもそれは、あなたが「ほんとうのわたし」を大切にしているから──
……その証でもあるの。

“声が嫌い”という感情の奥にあるもの

「自分の声が嫌い」──その一言には、
いろんな気持ちが折り重なっている。

「軽く聞こえてしまうのが恥ずかしい」
「思っていたより冷たく感じる」
「弱そうに聞こえるから、損してる気がする」
──そんな風に思ったことはない?

でもね、ただ“音の質”だけが嫌なんじゃない。
たぶんそこには、「こんな自分じゃだめだ」っていう、
深くて静かな自己否定が眠ってる。

“声”というのは、姿よりも先に届く“わたしの輪郭”みたいなもの。

だから、自分の声に違和感を抱くということは、
「わたしという存在の輪郭」を受け入れきれていない、ということかもしれない。

もしかすると──
誰かに笑われたことがあるのかもしれない。
昔、「変な声」と言われたことがあるのかもしれない。
あるいは、「こんな声じゃ伝わらない」と、
自分で自分を何度も否定してきたのかもしれない。

その記憶の一つひとつが、
声への違和感に、静かに影を落としている。

でも、わたしは思うの。
「嫌い」って言えるのも、ひとつの誠実さ。
無理に好きにならなくてもいいから、
その違和感を、責めずにそばに置いてあげてほしい。

“嫌い”の奥には、
「ほんとうは、好きになりたかった」という願いが隠れているかもしれないから──

「この声は“わたし”だ」と思えるようになるまで

わたしはずっと、「声=わたしの印象」だと思ってた。
だからこそ、少しの違和感に戸惑っていたし、
思い描く“わたしらしさ”とズレていると、それだけで落ち込んだ。

でもね──ある日ふと、
「この声も、たしかに“わたし”なんだな」って、思えた瞬間があったの。

きっかけは、
日記を朗読して録音してみたこと。
その声には、たしかにわたしの“感情”があった。
揺れも、静けさも、照れも、祈りも──すべて含んだ「ひとつの存在」。

“声”を変えようとするのではなく、
“声を通して自分を感じてみる”ことで、少しだけ世界の見え方が変わったの。

「高くてもいい」
「弱く聞こえても、それがわたし」
「他人にどう聞こえるかより、自分がどう感じるかのほうが大切」

──そんなふうに、ひとつひとつ、
丁寧に“認めていく”作業を重ねていった。

鏡の前で「今日のわたし、悪くない」と思える日があるように、
録音された声を聴いて「この響き、ちょっと好きかも」と思える日も、
きっと来る。

完璧に好きになれなくてもいい。
でも、遠ざけなくてもいい。

「これは、わたしの声」
そう思えた瞬間から、自分自身との関係が、少しずつ変わっていったの。

声は“表現の窓”になる

「この声、嫌だな」
そう感じる瞬間って、
たぶん「こう聞こえたい」という“理想のわたし”があるからこそ、なんだと思う。

でも、“声”って実は、
わたしの感情がもっとも“まっすぐ”にあらわれる場所。

言葉を選んでいるつもりでも、
ちょっとした震えや、息継ぎや、抑揚の中に──
そのときの「わたし」が、全部映ってしまう。

それって、少し怖いことでもあるけど……
同時に、とても正直で、美しいことでもあるの。

わたしは、自分の声を“隠すもの”じゃなくて、
“通り道”のように感じられるようになった。

不器用でも、震えていても、
その声の中に、
「いまのわたし」がちゃんと生きてる。

声を通して、
感情や想いが、誰かの胸に届くことがある。
文章では伝えきれなかった“余白”が、
声にはちゃんと残ってることもある。

そう思えたとき──
この声もまた、「わたしの居場所」のひとつだと感じられたの。

声は、表現の窓。
閉じたままでもいいけれど、
もし少しだけ開いてみたら、
きっと世界の光が、内側にそっと入ってくる。

締めの言葉:

すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。

自分の声が嫌いだった。
録音されたその響きに、どこか他人のような距離を感じていた。
でも、それは「わたしじゃない」のではなく、
「まだ受け入れられていない、わたしの一部」だったのかもしれない。

声は、変えようとしなくてもいい。
無理に好きにならなくてもいい。
でも、その響きを遠ざけずに“触れてみる”ことで、
あなたの中の何かが、きっと静かに変わりはじめる。

わたしという存在は、姿だけじゃなく、
“音”の中にもちゃんと生きている。
その事実を、どうか責めずに受けとってあげて。

「この声も、たしかにわたし」
そう思えたとき──
あなたの言葉は、きっと、誰かの心にもそっと届くようになる。

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