ふと、思ったの。
知識って、心が乾いていると、うまく染み込まないのかもしれないって──
読みたい本が目の前にあるのに、
文字を追っても、なにも入ってこない。
ページはめくられるのに、心が置いていかれている。
そんな日は、
「わたし、集中力が落ちてるのかな」とか、
「ダメな日なんだ」と思ってしまうかもしれない。
でも──
もしかしたらそれは、頭の問題じゃなく、心のサインかもしれないの。
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの
目次
“理解できない”は、頭の問題じゃない
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした
思考が働かないとき、
わたしたちはつい「頭のせい」にしがちだけれど──
本が読めない、話が入ってこない、集中できない。
その多くは、**“心の受け皿”がいま空っぽじゃないか?**という問いに繋がっている。
理解するためには、
心が静かであること、余白があること、あたたかさがあることが必要。
それが満たされていないと、
どんなに読みたい本でさえ、情報がすり抜けてしまう。
「読めない日」は、頭の調子ではなく、
心のコンディションが整っていない日──
そう思えたら、自分を責めずにすむかもしれない。
知識よりも、“安心”を欲している日
本が読めないとき、
もしかするとわたしは「知識」ではなく、
“安心”を求めているのかもしれない。
情報や学びは、
ある程度「安全な場所」からじゃないと、吸収できない。
心がささくれていたり、疲れていたりすると、
新しいことを取り込む余裕はなくなる。
それは自然なこと。
読書に限らず、インプットができないときは、
「今日は外に開くより、内を整える時間」と割り切ってみてもいい。

セン(Sen)
本が読めない=わたしが壊れている、ではなく、
本が読めない=いまは“自分を優先する”とき、かもしれない。
内面のざわめきが、文字を弾いてしまうとき
気持ちが揺れているとき、
本の中の言葉と、自分の内側の音が反発し合ってしまう。
頭で理解しようとしても、
心が“ここにいない”とき、文字は入ってこない。
とくに、
不安/寂しさ/焦り/虚無感──
こうした「静かなノイズ」が心にあると、
本の言葉は、まるで違う言語のように遠くなる。
そんな日は、読むことをやめてもいい。
ページを閉じることは、逃げではなく“選択”。
そして、こう問いかけてみてほしい。
「いま、わたしの心が本当に求めているものは?」
「読めない日」が教えてくれる本当の状態
読めない日。
入ってこない日。
ページだけが進んで、内容が残らない日。
わたしたちはつい、
そんな自分にイライラしたり、
「ダメだな」って落ち込んでしまいがちだけど──
本が読めないということは、
“内側がうまく呼吸できていない”というサインでもある。
感情が詰まっているとき。
考えごとが渦巻いているとき。
ちょっと孤独な気持ちのとき。
そういうとき、本の言葉は「受け取る対象」ではなく、
ただ流れていくだけの“遠い音”になってしまう。
それに気づいたとき、
わたしはようやくページを閉じて、
静かな飲みものを手に取った。
心を満たすために、本の代わりにできること
読むことをやめたからといって、
“わたしが止まった”わけではない。
代わりに、
- 音楽を聴いてみる
- 日記を開いて書いてみる
- ただ、あたたかいお茶を淹れてみる
- 空を見上げて深呼吸してみる
──そんなふうに、
本とは違う言葉で、自分の中に語りかける時間もある。
本が与えてくれるのは知識だけじゃない。
“心を整える余白”でもある。
その余白を先に整えるために、
まずは「読まない」という選択をしてもいい。
すぐに答えは出ない。でも、問いを抱きしめた時間は……きっと意味になる。
読めない日があるのは、悪いことじゃない。
それは、あなたの心が「満たされていないこと」を
静かに伝えてくれているだけ。
本を開く前に、
まず自分の“今”に問いを置いてみる。

セン(Sen)
「わたしは今、何を受け取りたいと思ってる?」
「いまのわたしが、ほんとうに欲しいものって?」
その問いが、言葉よりも深く、
あなたを整える道しるべになるかもしれない。
“読めない”という事実すら、
わたしたちにとっては「大切な気づき」になる。
静かにページを閉じて、
まずは、自分を開くことから始めてみよう。