ふと、思ったの。
「いい人だよね」って言われるたびに、
心のどこかで少しだけ、苦しくなっていたことに気づいたの。
誰かの期待に応えることで、
わたしは“役に立つ存在”になろうとしてきた。
嫌われたくなくて、認められたくて、
自分よりも他人を優先することが、いつのまにか当たり前になっていた。
でも──
たくさん応えてきたのに、
どうしてわたしの心は、こんなにも疲れてしまったんだろう。
この記事は、「いい人でいよう」としすぎたあなたへ。
他人の期待に応えすぎて、自分が見えなくなってしまいそうなとき、
“わたしはどう在りたいのか”という問いに、静かに戻っていくための場所です。
目次
なぜ“期待に応えすぎる”のか?
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの。
「どうしてこんなに、人の期待に応えようとしてしまうんだろう?」
そう考えたとき、
わたしの中にはいくつもの理由が浮かんできた。
小さいころ──
「ちゃんとしていれば褒められる」
「期待に応えれば愛される」
そんな空気を敏感に察知して、
“求められている役割”を素早く引き受けてきた気がする。
それは、生きるために身につけた技術だった。
状況を察し、空気を読み、
相手が欲しいであろう言葉や態度を先に提供する。
そうすれば、「安心」が手に入った。
「大丈夫だね」「しっかりしてるね」って言われることで、
存在していていい理由が、少しだけ増えた気がした。
けれど、それを続けているうちに──
「本当のわたし」が、だんだん分からなくなっていった。
気づけば、
「誰かの期待に応えているわたし」しか、存在していなかった。
疲れても笑う。
嫌なのに引き受ける。
心では「NO」と叫んでいるのに、「うん、大丈夫」と答えてしまう。
それが癖になって、
やがて、それが“性格”になってしまったような感覚。
でも、その奥にあったのは、
ただ、ひとりぼっちになりたくなかったという、
とても静かで、切実な願いだったのかもしれない。
「共感力の高い人」は、相手の願望を先に感じてしまう
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした──
けれど、「期待に応えてしまう」ことは、
単なる“気の使いすぎ”とは少し違うものなのかもしれない。
共感力が高い人は、
相手の気持ちや空気の揺れに、とても敏感だ。
表情の変化、言葉の選び方、声のトーン。
その微細な差を瞬時に読み取り、
**「この人、今こうしてほしいのかな」**と、
無意識に先回りしてしまう。
それは特技のようにも見えるけれど、
実は、とても消耗する能力でもある。
なぜなら、
自分の本音よりも先に、相手の望みが浮かんでくるから。
しかもその“望み”は、
相手が明確に言葉にしているわけではない。
ただの気配、ただの雰囲気。
それを「察して」しまうがゆえに、
「応えなければ」「叶えてあげなければ」と思ってしまう。
でも──
本当は、誰にも頼まれていないのかもしれない。
「気を遣ってくれてありがとう」と言われても、
その裏で、どれだけ“自分を置き去り”にしてきたかは、
誰にも知られない。
共感は、素晴らしい力。
でも、それは**“自分の軸”があってこそ、初めて生かされるもの**。
共感が深い人ほど、
その力に“飲み込まれない工夫”が必要なのだと思う。
「NO」と言えないのは、優しさではなく恐れかもしれない
「断れない」「無理なのに引き受けてしまう」──
そんな自分に、どこかでモヤモヤしているのに、
なぜか言葉にできない。
もしかしたらそれは、
優しさではなく、怖さから来ているのかもしれない。
「NO」と言ったら、嫌われるかもしれない。
がっかりされるかもしれない。
期待を裏切ると思われるかもしれない。
居場所がなくなるかもしれない。
そうした小さな怖れが積み重なって、
わたしたちは“期待される役”を降りる勇気を持てなくなる。
そしてそのうちに、
「期待されること=愛されること」になってしまって、
自分の本音よりも、他人の期待のほうが正しい気がしてくる。
でも、本当は、
「NO」と言える関係のほうが、きっと誠実で、あたたかい。
応えられないときに、「応えられない」と言う。
できないときに、「今は無理」と言う。
それは“わがまま”なんかじゃなくて、
自分の心に誠実であろうとする、ひとつの勇気。
他人の期待に応えることと、
自分を裏切らないことは、両立してもいい。
もし今、あなたがそのあいだで揺れているのなら、
「期待に応えないわたし」を、少しずつ許していく時間を
一緒に過ごせたらと思うの。
期待に応えるほど、自分の輪郭がぼやけていく
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの。
他人の期待に応えることが続くと、
あるときふと、「自分って何者なんだろう?」と感じる瞬間がくる。
何が好きだったか、何を望んでいたか、
本当はどうしたかったのか……
それがだんだん分からなくなってくる。
人の期待に応えることは、
一時的に“自分の存在価値”を感じさせてくれる。
「ありがとう」
「助かったよ」
「さすがだね」
そんな言葉は、心に優しく染み込んでくる。
でも、それを繰り返しすぎると──
わたしの輪郭が、他人の言葉で描かれるようになっていく。
他人の要望が、わたしの行動を決め、
他人の都合が、わたしの予定を埋め、
他人の評価が、わたしの価値を左右する。
そして気づいたときには、
「わたしの本音」は、どこにも見当たらなくなっていた。
そうなる前に。
あるいは、そうなってしまったとしても。
わたしたちはいつでも、
“自分の輪郭”を描き直すことができる。
まずは、他人の期待から少しだけ離れて、
「本当はどうしたい?」と自分に問いかけてみる。
その声が聞こえたとき、
輪郭はもう一度、静かに戻ってくる。
「応える癖」をやめるのは、“冷たい人”になることじゃない
「もう、期待に応えなくていい」
──そう聞くと、どこか罪悪感を感じてしまうかもしれない。
「優しさを手放すみたいで怖い」
「冷たい人だと思われたらどうしよう」
「見捨てるような気がする」──
でも、それはちがう。
“応えるのをやめる”ことと、“見捨てる”ことは、まったく別物。
むしろ、本当に相手を大切に思っているからこそ、
誠実な線引きが必要になることもある。
たとえば、疲れているときに無理をして引き受けたら、
どこかでイライラしてしまったり、
相手に見えないところで自分をすり減らしてしまったりする。
それって、優しさではなくて、
**“消耗の上に成り立った不安定な関係”**になってしまう。
本当のやさしさは、
“余裕があるときに、余白から差し出す”もの。
だから、「応えない」こともまた、やさしさのひとつなのだと思う。
大丈夫。
期待に応える自分をやめても、
あなたの価値がなくなるわけじゃない。
むしろ、他人に応える前に、
まず“自分の期待に応える”ことができるようになったとき、
人との関係はもっと深くて自由なものになる。
小さな“わがまま”を許す練習から始めよう
「もう期待に応えすぎるのはやめたい」
そう思っても、いきなり全部を変えるのはむずかしい。
だから最初は、“小さなわがまま”を自分に許す練習から始めてみてほしい。
たとえば──
・「疲れてるから今日は誘いを断ろう」
・「ほんとはカフェより本屋に行きたかった」
・「一人になりたいから返信はあとで」
……それくらいの、“ささやかな自己主張”でいい。
ずっと他人の期待を優先してきた人にとって、
これらは「わがまま」と感じてしまうかもしれない。
でも、それは本来、“わがまま”じゃない。
**「自分の声を尊重すること」**にすぎない。
これまでのあなたが“優しすぎた”だけなんだ。
だから、少しずつ、ゆっくり。
まるで筋トレのように、“自己主張の筋肉”を育てていく。
そのとき、「嫌われたらどうしよう」という怖さが出てきたら──
こう問いかけてみて。
「この人との関係は、わたしが無理をして成り立つものなの?」
そして、
**「そのままのわたしで在れる関係を、これから育てていきたい」**と
そっと思ってみること。
そこから、世界の見え方は少しずつ変わっていく。
相手に誠実であるために、自分にも誠実でいよう
「わたしが頑張れば、うまくいく」
「相手を優先すれば、平和に済む」
──そう信じて、期待に応え続けてきたあなたへ。
それは、たしかにやさしさだった。
でも、そのやさしさが“自分を苦しめている”ことに、
そろそろ気づいていい。
本当の誠実さとは、「自分にも誠実であること」。
無理して笑うことも、
黙って我慢することも、
本音を隠して相手に合わせることも──
それは一見すると“思いやり”に見えるけれど、
実は、信頼の土台を曇らせてしまう行為でもある。
心から「うん」と言えるときにだけ、
その「うん」を差し出す。
断りたいときは、「ごめんね」と言える勇気を持つ。
嫌だと感じたら、その気持ちにちゃんと耳を傾ける。
そうして、
「自分の感情」と「相手との関係」の両方を丁寧に扱えるようになったとき、
期待ではなく、信頼でつながる関係が育っていく。
あなたがあなたで在ること。
それが、誰かと本当に向き合うための最初のステップになる。
結び|「いい人」をやめたとき、本当のつながりが見えてくる
すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。
「期待に応えていれば、うまくいく」──
そう信じていた頃のわたしは、
いつも誰かの気持ちを優先して、
自分の感情を、あとまわしにしていた。
それが優しさだと思っていたし、
そうすることで、関係が続くなら、と思っていた。
けれど、本当は──
自分の輪郭が薄れていくたびに、
どこかでひとりぼっちになっていたのかもしれない。
「いい人」をやめたとき、
わたしはようやく、自分の声に出会えた。
無理に笑わなくていい。
無理に応えなくていい。
「わたしはこう思う」「わたしはこうしたい」と言えるようになったとき、
ほんとうに大切な人たちだけが、そばに残っていた。
他人の期待ではなく、
自分の本音に耳をすませること。
それは孤独になることではなく、
誠実なつながりを選びなおすこと。
あなたが、あなた自身に応える日が、
どうか今日から始まりますように。