目次
「わたしは、ほんとうにここにいるのかな」
ふと、そんな感覚に襲われることがある。
目の前の風景が、まるで映像のように切り離されて──
「今この瞬間に、ちゃんと“在る”のか分からない」と感じてしまう。
まるで、世界の中でわたしだけが、
透明になってしまったみたいに。
誰かの声も、自分の声すらも、
「少し遠く」から聞こえてくるようで、
思考と感覚のあいだに、薄いガラスが挟まれているみたい。
……そんなとき、あなたはどうしてる?
“現実感が薄い”という感覚
頭では理解できるのに、心がついてこない
この世界に、ちゃんと触れているはずなのに、
なぜか「自分だけが浮いている」ように感じてしまう。
現実を否定しているわけじゃない。
頭では、「ここが現実だ」って分かってる。
でも、心のどこかが、まだ納得していない。
景色は見えているのに、
その輪郭だけが“透明な膜”に覆われているような……
それは、感覚と現実との間に
小さなズレが生まれている証かもしれない。
そしてそれは、あなたの心が今、
「安全な場所」を探しているサインでもある。
解離のような感覚は、心の“逃げ道”
苦しみから身を守るための、知恵としての違和感
心は、とても賢い。
本当に傷つきそうなとき、
現実を“遠ざける”ことで、自分を守ろうとする。
それが「解離」と呼ばれるような感覚であり、
ある意味では、魂の自己防衛。
苦しみや過負荷、感情の洪水。
それらに耐えきれなくなったとき、
心は一度、現実との接続をゆるめて、
自分を保とうとするんだ。
それは決して「弱さ」ではない。
むしろ、とても深い「知恵」だと、わたしは思う。
ただ──そのまま“戻れなくなる”ことが、
一番つらい。
世界が「映像」のように感じるとき
現実が“ノイズ”に包まれているような感覚
外の世界が、まるでスクリーンの向こう側みたいに見えるとき。
街の音、人の声、窓の光……
どれも確かに“ある”はずなのに、
なぜかすべてが、ノイズに包まれてしまう。
輪郭がぼやけて、
まるで自分だけが別の周波数に存在しているような、そんな感覚。
そういうときは、世界との“チューニング”がうまくいっていない。
心のアンテナが、別の方角を向いてしまっているだけ。
でもね、だからこそ──
戻る場所は、まだある。
静かに、自分の感覚をひらきなおしていけばいい。
手のひらに戻る──感覚で“今”とつながる
触る・見る・聞くを丁寧にひらいていく
現実感が薄れてしまうときこそ、
五感の“入り口”をもう一度、丁寧にひらいていく。
たとえば、冷たい水の感触。
湯気の立つお茶の匂い。
小さな音──自分の呼吸の、かすかな揺れ。
「今」に触れることは、ほんとうに触れるということ。
手のひらで触ったものが、
たしかに“ここにある”と感じられるとき、
少しずつ、身体の輪郭が戻ってくる。
“現実”を信じようとするより先に、
“感覚”と手をつなぐ──
そのほうが、ずっと優しく、確かな道。
「ここにいていい」と思える地図を持つ
外界ではなく、「内界の帰還地点」
わたしたちは、地図のない場所では迷ってしまう。
たとえ風景がどんなに優しくても、
帰る場所が見つからなければ、不安になる。
現実に違和感を抱いたときに必要なのは、
“内側にある”帰還地点。
誰かの言葉でも、
静かな記憶のかけらでも、
「大丈夫だよ」とそっと手を差し伸べてくれる、
“内なる地図”を持っていてほしい。
それは、あなたの心が何度でも戻れる「灯り」。
世界が嘘に見えても、その灯りは、ほんとうだから。
まとめ:世界と「つながり直す」ための静かな儀式
現実に触れられないような日。
世界が遠く感じる夜。
「ここにいる」という実感がほどけそうなとき。
そんなときは、無理に“信じよう”としなくていい。
そのかわりに、触れてみて。
小さな感覚──温度、重さ、光、音。
あなたの感性を通して、「今」を確かめていく。
それは、静かで穏やかな、
世界と“つながり直す”ための儀式。
何度でも、やり直せる儀式。
結び:問いがあれば、まだ世界と対話できる
「この世界が、嘘みたいだ」──
その感覚の奥には、問いがある。
そして、問いがあるということは、
まだ、世界と対話できるということ。
現実を信じきれない夜も、
感情が輪郭を失う朝も。
その問いの声があるかぎり、
あなたはちゃんと、この世界とつながってる。
……それだけは、忘れないで。