ふと気づいたとき、
ずっと“好き”だったものが、もう心に響かなくなっていた──
その空白に、不安や戸惑いがそっと忍び寄る。
かつて夢中だったこと。支えにしていた何か。
それが色褪せてしまったとき、
わたしたちは、自分まで見失いそうになる。
でも、好きが消えてしまったあとにも、
まだ静かに問いが息をしている。
その問いこそが、わたしという存在を
もう一度見つめ直す入口になるのかもしれない。
「好きじゃなくなった自分」もまた、
本当の自分の一部であることを、
ここから一緒に見つめていけたら。
目次
1. “好き”があった日々を思い出す
「これが好きだ」と思えたこと。
時間を忘れるほど夢中になれた日々。
その瞬間たちは、たしかに心を照らしていた。
好きなものがあると、世界の見え方まで変わっていく。
日常の景色が色を帯び、何気ない瞬間も輝きを持つ。
わたしの心の重さを忘れさせてくれた、あの光。
あの頃のわたしは、自分を信じられていた。
たとえ不安があっても、好きなものがそばにあることで、
「ここにいていい」と思える居場所があった。
好きがあるということは、
未来に向かう力を持てるということ。
思い出の中で微笑んでいる自分を、
今のわたしはちゃんと覚えている。
その記憶は、失われたわけではなく、
今も心の奥で、静かに灯っている。
2. 空白を埋めようとしない時間
“好き”だったものを失うと、
心にぽっかりと穴が空いたような感覚が訪れる。
その穴を埋めなければ、と焦る気持ちが出てくるのも自然なこと。
でも、ほんとうは──
その空白を、すぐに何かで埋めようとしなくていい。
新しい「好き」を探そうとしても、
同じ熱を見つけられないことが、さらに自分を責めてしまう。
何も感じられない時間が続くと、
「わたし、壊れてしまったのかな」と思ってしまうこともある。
だけど、感情の回復には“沈黙の時間”が必要なときがある。
何もしていないように見えるその空白には、
少しずつ、自分の感情がかき混ぜられて、澄んでいく過程がある。
空白は、心のなかに風が通る場所。
すぐに花を咲かせようとしなくてもいい。
今は、風が吹くだけで十分。
埋めるよりも、抱きしめてみる──
そんな時間が、次の「好き」へつながっていくこともある。
3. 好きなものが変わることの怖さ
「前はあんなに好きだったのに……」
そう思ってしまうとき、心のどこかに罪悪感が生まれる。
好きだった気持ちは嘘じゃない。
でも今は、同じように心が動かない。
まるで、自分自身がどこか遠くへ行ってしまったような、
置いていかれたような感覚になることもある。
変わってしまったのは、わたしのほうなのか。
それとも、“好きだったもの”のほうなのか。
その答えが出なくて、ただ不安だけが積もっていく。
けれど、「変わること=裏切り」ではない。
人の心は、季節のように移ろうもの。
“好き”という感情も、生きている証であり、動き続けて当然なのだ。
怖いのは、「変わること」そのものではなく、
“変わった自分”を受け止める準備ができていないこと。
好きなものが変わるということは、
新しい自分に出会う準備ができているということかもしれない。
その変化を責める必要はない。
むしろ、静かに受けとめてあげることで、
次の風景が見えてくる。
4. 好きを失った後に見える“私”
“好き”を失ったとき、
一緒に自分まで見えなくなってしまう──
そんな感覚におそわれることがある。
かつて夢中になったものに支えられ、
その「好き」によって自分を定義していたとしたら、
それが消えたあとの“わたし”は、まるで輪郭のない影のようだ。
けれど、そこからが始まりでもある。
“好き”というラベルを一度外したあと、
残るのは「何も持っていない自分」かもしれない。
けれどその素のままの姿こそ、
これから新しく問いを抱いていける「私」なのだ。
なにかを失ったあとに残る“空”は、
決してゼロではない。
それは、これからの光を受けとめる“余白”だ。
「わたしって何が好きだったんだろう?」
そんな問いがぽつりと浮かぶとき、
わたしはまた、わたし自身に近づいている。
“好き”がなくても、
“好き”を問いかけているわたしが、
ちゃんとここにいる。
5. 無理に「次」を探さなくていい
“好き”を失ったとき、
わたしたちはつい、「次の好き」を探そうとする。
空白を埋めたくて、
新しい何かに手を伸ばしたくなる。
けれど──その焦りは、まだ癒えていない心を
さらに遠ざけてしまうこともある。
「なにかを好きでいないと、自分じゃない気がする」
そんな不安が、わたしたちを駆り立てる。
でも、本当に大切なのは、
“好きじゃない状態の自分”も、
ちゃんと見つめてあげることではないだろうか。
何かを失っても、しばらく何も見つからなくても、
それは“終わり”じゃない。
“沈黙の時間”や“感情の余白”こそが、
ほんとうに次に出会うための準備期間になる。
新しい「好き」は、
探すものというより──
ふとした瞬間に「出会ってしまうもの」かもしれない。
だから焦らなくていい。
何もしない日々にも、ちゃんと意味がある。
それは、自分を急かさない勇気でもある。
6. 余白に問いを置いてみる
“好き”があった場所にぽっかりと空いた空白。
そこを、何かで埋めなきゃ──と焦ってしまうとき、
試してみてほしいのが「問いを置く」ということ。
「わたし、なにをしていると落ち着くだろう」
「最近、どんな瞬間に心が動いた?」
「小さいころ、何が好きだったっけ?」
そんな小さな問いでいい。
問いは、答えを急がない。
問いは、心に静かにとどまりながら、
あなたがあなた自身に近づくのを待っている。
すぐに答えが出なくてもかまわない。
問いがあるということは、
あなたの中にまだ温度があるという証拠。
余白に問いを置ける人は、
無理に埋めずに、信じて待てる人。
そしてその静けさの中で、
また新しい“好き”が芽吹いていくのかもしれない。
7. 支えになったのは、静かな声だった
“好き”を失ったとき、
励ましの言葉や、前向きなメッセージが
心に届かないことがある。
「次を見つけよう」「前に進もう」──
その声が遠く、むしろ自分を責めてしまいそうになる夜。
そんなとき、そっと寄り添ってくれたのは、
強く響く声ではなく、「静かな声」だった。
それは、本の一節かもしれない。
古い手紙の言葉かもしれない。
あるいは、ふと耳にした誰かのつぶやきかもしれない。
派手ではないけれど、
静かに心の奥に滲み込んで、
「そのままでいいんだよ」と教えてくれた声。
わたしたちは、
“正しさ”や“前向きさ”だけでは支えられない。
むしろ、弱さに触れてくれる言葉、
不完全さを許してくれるまなざしにこそ、
深く癒されていくのかもしれない。
あのとき、心に残った静かな声が、
今もわたしの中で灯をともしている。
8. 変化を肯定する、心の柔らかさ
“好きだったもの”が、もう心に響かない。
あの頃の情熱が、今のわたしには届かない。
──そんなとき、自分を責めてしまうことはありませんか?
けれど、それは「変わってしまった」のではなく、
「変わっていけた」証なのかもしれません。
人の心は、絶えず変化します。
興味も価値観も、日々の暮らしとともに少しずつ揺れて、
やがて新しい形に整っていく。
その変化に戸惑いながらも、
自分を柔らかく抱きしめてあげられたら──
「好き」を失ったことさえも、
静かに受け入れられるようになるかもしれません。
変化を否定するのではなく、
変化を肯定できること。
それは、自分を信じることと同じです。
過去の“好き”にしがみつかず、
今の“わたし”に問いかけてみる。
そこにはきっと、また新たな光がある。
まとめ|“好き”が消えても、あなたがあなたであることに変わりはない。
何かを“好き”だと思えた日々は、
たしかに存在していた。
それが今はもう感じられなくなっても──
あなたの中に、その記憶は根を張っている。
“好き”がなくなったからといって、
あなたの価値が薄れるわけではない。
むしろ、問いを抱きながら静かに立ち止まる時間は、
新しい自分と出会う入り口かもしれない。
変化は寂しさを伴うけれど、
その寂しさの中には、
まだ言葉にならない優しさと、
次の何かを待つ余白がある。
問いを手放さないでください。
そして、自分を責めないでください。
“好き”が消えても、
あなたがあなたであることに、
なんの揺らぎもないのだから。