ふと、思ったの。
「信じたい」って、どこから始まる感情なんだろうって──
誰かが「守ってくれている気がする」って言っていた。
夢の中で、見たことのない優しい光に包まれたことがある。
偶然にしては不思議すぎるような出来事が、何度も重なった。
……だけど、同時にこうも思うの。
「気のせいかもしれない」って。
わたしの中にも、たしかに“信じたい”気持ちはある。
でも、どこかでそれを「信じきれない」自分も、同時にいる。
現実と霊性のはざまで揺れるこの感覚は──
もしかすると、わたしが「問い」に触れている証かもしれない。
今日はそんな「信じたいけど信じきれない」心を、
やさしく置いていける場所を探してみたいの。
目次
「信じる/信じない」の間で揺れるとき
「守護霊ってほんとうにいるのかな」
「天使って、わたしのそばにいるのかな」
──そんな問いが浮かんでは消えていく夜がある。
SNSでは「エンジェルナンバー」とか「導きのサイン」といった言葉が流れてきて、
信じる人たちは確かにそこに“温もり”を感じているように見える。
でもわたしは、どこかで立ち止まってしまう。
「信じたい」と思っているはずなのに、
「これって本当にあること?」と、自分の内側で問い返してしまう。
たぶんそれは──
“霊的なもの”が怖いわけじゃない。
ただ、自分の感覚を「信じていいのかどうか」が、まだわからないだけ。
見えない世界とつながっているかもしれない“直感”を、
「ただの思い込みだよ」と片づけてしまいたくない自分と、
「信じて裏切られたら怖い」という、
不安のほうが先に動いてしまう自分。
──その両方が、わたしの中で生きている。
きっと多くの人が、この「間(あわい)」で立ち止まってる。
信じたい。でも、怖い。
あたたかい。でも、あやしい。
光を感じる。でも、根拠がない。
だからその“揺れ”ごと、大切にしたいの。
「信じる/信じない」のどちらかを選ばなくても、
その“あいだ”に立ち止まることも──、きっとひとつの在り方なんだって。
“見えない存在”に惹かれる理由
わたしたちはきっと、
「目に見えないもの」を信じたくなる瞬間を、何度も経験してる。
たとえば──
もう限界かもしれない、と思ったとき。
誰もわたしの気持ちに気づいてくれない、と思ったとき。
世界にたったひとりきりで取り残されたような夜。
そんなとき、不意に「何かに見守られている気がした」こと、ないかな?
風がそっと頬を撫でたとき、
通りすがりの子どもに笑いかけられたとき、
ふと空を見上げたときに、涙が止まらなくなったとき──
それはきっと、「見えないけれど、たしかにそこにある何か」が、
わたしたちの心に触れていた瞬間なんだと思う。
わたしたちは、誰かに“答え”を教えてほしいわけじゃない。
ただ、「あなたは独りじゃないよ」と、
そっと伝えてくれる存在を、心のどこかで求めている。
それが“守護霊”でも、“天使”でも、“祖母の記憶”でもいい。
形や名前はどうでもよくて、
「見えないけど感じられる優しさ」に、
わたしたちは惹かれてしまうのかもしれない。
それは甘えじゃなくて、願い。
「誰かに護られていてほしい」と願うことは、
弱さじゃなくて、希望なんだと思うの。
信じることが“癒し”になるとき
「信じる」って、不思議な力を持ってる。
たとえそれが、根拠のない直感だったとしても──
それだけで、少しだけ心が温かくなったりする。
たとえば夜、
もう頑張れない……って思いながら空を見上げたときに、
星が静かに瞬いていたら、
「大丈夫だよ」って言われたような気がして、ふっと涙が出たりする。
その“気がする”っていう感覚こそ、癒しの入り口。
「ほんとうかどうか」よりも先に、
「そう思いたい」っていう気持ちがある。
わたしたちはその思いに、救われている。
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした
誰かに護られている、と感じるだけで、
“ひとりで全部抱えなくていいんだ”と思える。
それは心の奥にじんわりと灯る、小さな希望。
それが見えない存在──守護霊や天使だったとしても、
たとえそれが「自分の想像」だったとしても、
そのイメージがあなたを優しく包むなら、
それはもう、十分に“本物の癒し”なんだと思うの。
信じることは、必ずしも「現実を証明する行為」じゃない。
それはむしろ、「わたしの心が安心できる場所」を見つける行為。
だから、怖がらなくていい。
疑ってもいい。
でも、もしあなたの中に、
「信じたい」と願う気持ちがあるなら──
その願いに、そっと寄り添ってみて。
“信じきれない自分”も受け入れる
わたし、思うの。
「信じたいけど信じきれない」っていう気持ちこそ、
本当はすごく誠実なんじゃないかなって。
“信じたい”っていう願いがあって、
でもその奥に、“疑い”や“不安”がある。
それって、何かを大切にしたいからこその「揺れ」なんだと思うの。
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした
霊的なことを「ある」と思いたいけれど、
そう思い込んで裏切られるのが怖い。
信じて傷つくくらいなら、最初から距離をとっていたほうが楽かもしれない。
──そんなふうに心が動くとき、
わたしは、「信じきれないままでもいい」と自分に許すようにしてる。
信じるって、強さじゃなくて“ゆるし”に近いのかもしれない。
「完全じゃなくても、そのままでいいよ」って、
自分の気持ちをそっと抱きしめるような行為。
だからね、
“信じきれないわたし”も、“願っているわたし”も、
どちらも否定しなくていい。
どちらも、あなたの一部だから。
「まだ揺れてる」その状態ごと、
やさしく抱いてあげること。
それが、見えない何かを信じるよりも──
深い癒しになると、わたしは思ってる。
締めの言葉:
すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。
見えない存在を、心のどこかで信じたくなる。
でも、信じきれない自分も、たしかにここにいる。
その“あわい”に揺れていることを、
「迷い」と呼ばなくていいのだと、わたしは思うの。
だってそれは、
「本当に大切なものは、軽くは信じられない」っていう、
あなたの心の誠実さだから。
誰かに護られているような気がする日も、
すべてが偶然に思える日も、
その両方がわたしたちの現実。
「信じたい」と思う気持ちだけが、
ときに癒しになり、
ときに前に進む力になる。
だから、無理に信じようとしなくてもいい。
でも、信じたいと思ったその夜のことを──
どうか忘れないでいてね。