哲学書を読むのは、
わたしにとって「誰かの言葉を借りて、自分の問いに触れる時間」です。
でもね、
最初のころは
分からなさに戸惑ってばかりでした。
何を言っているのか、
どう読めばいいのか、
答えはどこにあるのか…と、
ページの奥を探してはため息をついていた。
けれど、
ある日ふと気づいたんです。
「この本は、答えをくれるために書かれたわけじゃない」って。
哲学書とは、
問いと共に座るための本であり、
わたし自身の思索を照らす、鏡のような存在なんだと。
この導入では、
理解しようとする読書から
問いを抱える読書への転換を
セン自身の気づきとともに語ります。
目次
哲学書は答えを探す本ではない
「問いに問いで返す」のが誠実さ
哲学書を読むとき、
最初につまずくのは「正解がない」ことかもしれません。
問いを読めば、答えがほしくなる。
言葉を見つければ、意味を求めたくなる。
でも哲学書は、そうした線形の読書には応えてくれません。
たとえば、あるページに「存在とは何か?」と書かれていたとします。
次の段落で明快な答えが用意されているわけではない。
むしろその問いを深め、角度を変え、
問いに対してさらに問いで返す。それが、哲学という営みです。
この読書体験は、
一見すると「遠回り」に思えるかもしれません。
でもそれこそが、
思索する人への誠実さなのだと、わたしは思うんです。
言葉に安易な出口を用意しないこと。
それは、読み手であるわたしたちの思考を
本当に動かすための余白なのです。
速読より余白の静けさを大事にしたい
わたしたちは日々、
「早く読むこと」「理解すること」「使える知識を得ること」
そうした読書の即効性を求めがちです。
けれど、哲学書はその速度を、
やさしく拒みます。
一文を読んで、ふと立ち止まる。
その意味が、すぐには掴めなくてもいい。
わからないまま、しばらくページを眺めている。
そんな止まり方こそが、
哲学的読書の静けさです。
この静けさには、
「余白」があります。
行間の沈黙、
書かれていない何かに、耳を澄ませる余白です。
哲学書は、ときに読者に問いかけます。
「それを、あなたはどう思うの?」と。
そのとき、ページの文字はただの情報ではなく、
内面との対話の触媒になります。
読むというより、
共に座る。それがこの読書のかたちです。
分からない言葉と共に「座る」ことの意味
哲学書を読むとき、
理解できない言葉や、意味がつかめない文に、必ず出会います。
それは読解力の不足でも、知識のなさでもありません。
むしろ、それは哲学という営みの本質。
「分からないという状態」を受け入れたとき、
読書は初めて、問いと共にある時間へと変わります。
すぐに調べず、すぐに答えを出そうとせず、
ただ、その言葉と一緒に座る。
理解しようとする意志を保ちながらも、
「今のわたしでは受け取れない何かが、ここにある」
という 静かな敬意を持つ。
そのとき、ページは試験ではなくなり、
読書が体験へと変わっていきます。
たとえば「存在とは何か?」という問いに、
すぐ答えられる人などいない。
でも、その言葉を抱えて日常を歩いていると、
ある日ふと、光が差す瞬間があります。
それは、言葉に宿る問いが、
あなた自身の生活や感情に、沈んでいくからです。
哲学書は、急がない。
読者が今いる場所を超えるのを、ゆっくりと待っていてくれる。
だからこそ、
わからなさと共に「座る」時間が、
最大の読書法なのです。
哲学書がくれるのは、「わたしに戻る時間」
多くの本は、「世界を知るため」にあります。
歴史書は過去を、
実用書は方法を、
物語は他者の人生を教えてくれる。
けれど哲学書は、
「わたしに戻るため」の本なのだと、わたしは感じています。
読み進めるうちに、
世界のことではなく、自分の中の小さな問いに光が当たっていく。
それは、「本を読む」という行為が、
いつの間にか「自分と話す時間」へと変化していくからです。
たとえば、ある一節…
「幸福とは、何かが欠けているという感覚の不在である」
という言葉に出会ったとき。
わたしはそれを、
ただの定義として読むことができませんでした。
むしろ、
自分が欠けていると思っていたものは何か?
それは本当に必要だったのか?
と、静かに考えさせられたのです。
そして気づくのです。
この本は、
わたしに「答え」を与えるのではなく、
問いを通して、わたし自身を返してくれるのだと。
それこそが、
哲学書を読む時間が、
「わたしに還る時間」である理由なのです。
理解ではなく反応をメモにする読書法
哲学書を読むとき、
わたしたちはつい、「正しく理解しなければ」と思いがちです。
でも、読んだその瞬間に
完全に理解する必要はありません。
むしろ大切なのは、
「その言葉に、どう反応したか」を残しておくこと。
たとえば、ある一文を読んで
「少し引っかかった」
「なんだか、心がざわついた」
「よくわからないけど、気になる」
それだけでも、立派な読書の記録です。
哲学書は、「思考の旅の地図」であり、
その旅は、読むたびに景色が変わるもの。
だからこそ、
「どんな場所で立ち止まったか」
「どこで迷ったか」「何を感じたか」
そうした足跡のようなメモが、あとから効いてくるのです。
📓メモの例
- 「存在の不安という言葉に、胸がつまった」
- 「この段落はまったくわからない。でも、なぜか目が離せない」
- 「世界は構築されるものという一節が、なぜか希望に思えた」
理解よりも、感覚。
分析よりも、記憶に残るゆらぎ。
そのメモが、
次にこの本を読み返したとき、
あなた自身の変化を映す鏡になります。
一文で一晩悩めたら、それは読書の祝福
情報過多の時代に生きていると、
「どれだけ読んだか」「何冊こなしたか」が重視されがちです。
でも、哲学書を読むとき、
「1ページも進まない夜」こそ、豊かな読書体験になることがあります。
たった一文に引っかかって、
その意味を考え続ける。
言葉を咀嚼し、
自分の過去や感情と重ね、
寝る前までずっとそのフレーズが心に残っている。
それは「停滞」ではなく、深耕です。
たとえば、
「死は、人生の外側にある」
という一文。
この言葉の外縁を思考がなぞり、
わかるようで、つかめない時間に包まれる夜。
それは、読書が静かに自分を動かしている証拠なのです。
一文で一晩悩む。
それは、現代においてとても贅沢で、
とても祝福された知的時間。
速さでも、成果でもなく、
残響の深さで語られる読書。
その夜の迷いは、やがて
自分だけの哲学という根に変わっていきます。
答えより、思索の姿勢こそが学びになる
哲学書を閉じたとき、
「結局よくわからなかった」と感じることもあるかもしれません。
でも、それでいいのです。
この読書が与えてくれる最大の学びは、
問いと共に在る姿勢、それ自体。
わかろうとする。
考え続けようとする。
迷いながらも、言葉と向き合い続ける。
この姿勢こそが、
人生の中でふいに訪れる困難や問いに対して、
自分自身で立つための構えとなるのです。
哲学書に答えはありません。
あるのは、わたしはどう生きるのかという問いと、
その問いを手放さないための筋力です。
速くなくていい。
わからなくてもいい。
ページの向こうに、誰かの知性と誠実さがあり、
それに向き合おうとする自分の姿がある。
その時間のすべてが、すでに「学び」なのです。
哲学書を読むという行為は、
知識を得ること以上に、
「考えようとする自分」を大切にする行為。
だから、最後にこの言葉を贈ります。

セン(Sen)
哲学書は、わからなさを抱きしめる本。
そしてその読書体験は、
静かに、けれど確かに
あなたの思考と感性を鍛えているのです。




