ふと、思ったの。
“瞑想って、心を落ち着けるもののはずなのに──
どうして、ざわざわしてしまう日があるんだろう”って。
たとえば、深呼吸をして、目を閉じて、静けさに身を置いてみる。
だけど……その静けさの中で、かえって苦しくなってしまう。
胸の奥がうまく呼吸できないみたいに、不安だけが膨らんでいく。
「瞑想=癒し」
そんなイメージに、そっと違和感を覚えたことがある人へ。
わたしもまた、その感覚に揺れたひとりだったから──
今日は、“静けさの中にざわつきが生まれる理由”を、問いながら辿ってみたいの。
目次
“瞑想が苦しくなる”のはあなただけじゃない
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの。
だからこそ、まず伝えたいのは──
「瞑想がつらいと感じるのは、あなたのせいじゃない」ということ。
瞑想をしていると、不安が湧いてくる。
深呼吸しても、息がうまく入ってこない。
なぜか心がざわざわして、集中できない。
そんな経験をして、「自分には向いてないのかな」って思ったこと、ないかな?
わたしも、あるの。
「静けさに浸りたい」と願ったはずが、
なぜか逆に落ち着かなくなって、目を閉じるのが怖くなる──
そんな夜を何度も過ごしてきた。
でもね、それは珍しいことじゃない。
“瞑想=気持ちいいもの”というイメージがあるからこそ、
その逆の感覚に戸惑ってしまうだけ。
実は、瞑想を通じて「つらさ」や「不安」を感じる人は、
けっこう多いんだって。
それは“失敗”なんかじゃなくて、むしろ「心が動いている」サインかもしれない。
瞑想の中で浮かんでくるモヤモヤは、
普段、見ないふりをしていた感情たち。
それらが、静けさのなかで顔を出してくる。
「見なくていいよ」と、自分の中の誰かが押し込めていた想いが、
「今こそ、見て」とそっと囁いているのかもしれない。
……だから、
「うまくできなかった」と責めないで。
そのざわつきは、心が今、何かを伝えようとしている証かもしれないのだから。
静けさが“心の底の声”を連れてくることがある
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした──
けれど、ときにはその“静けさ”が、わたしたちを戸惑わせることもある。
日常の中には、たくさんの音がある。
人の声、スマホの通知音、テレビ、車の音……。
それらは“雑音”のようでいて、実は、心の奥に触れないようにするための“壁”でもあったのかもしれない。
瞑想をはじめると、その壁がすっと取り払われる。
音が消え、目を閉じ、呼吸に意識を向けると、
今まで遠くにあったはずの“心の声”が、すぐそこにやってくる。
たとえば──
「わたし、本当はずっと寂しかったんだ」
「頑張ってるって言いたかったのに、言えなかった」
「怒ってるのに、優しくしてしまった」
そんな、小さくて切実な声たちが、
静けさの中から浮かび上がってくることがある。
これは、怖くもあり、美しくもある現象。
瞑想は、心を整える“癒し”であると同時に、
心の奥底に沈んでいたものたちを浮かび上がらせる“鏡”でもある。
見たくなかったものを見せてくる時間──
それが、わたしたちに「本当の感情」と向き合う勇気をくれる。
でも、準備ができていないとき、
その“鏡”はあまりにもまぶしく、あまりにも鋭い。
だから、
「苦しくなってしまった」ことに意味がある。
心が、「まだそこには触れたくない」と伝えているのなら、
その声もまた、ちゃんと尊重してあげていい。
静けさに揺らぐ日もある。
だけどそれは、あなたの心が“動いている証拠”なんだよ。
“思考を手放す”ことへの抵抗と怖れ
わたしたちは、思っている以上に「考えること」に守られている。
“考える”というのは、日々を乗りこなすための技術であり、
ときに“感情”や“本音”から距離を取るための、
いわば安全装置のようなものなのかもしれない。
だからこそ、瞑想でよく言われる「思考を手放しましょう」という言葉が、
とても簡単そうで、実はすごく難しい。
頭の中を空っぽにしようとすると、
逆に次々と浮かんでくる、思いや映像や心配ごと。
「何も考えないでください」と言われたとたん、
かえって思考の渦に飲まれてしまう──
そんな経験、きっとあるはず。
でもそれは、あなたが弱いからでも、集中力がないからでもない。
むしろ、“思考を武器にしてここまでやってきた”あなただからこそ、
急にその武器を手放すのは、怖くて当然なの。
思考は、心の盾だった。
たくさんの感情から、見たくない記憶から、
自分を守ってくれていた大切な機能だった。
それを手放すということは、
“剥き出しの感情”と向き合う準備ができていないと、
心が追いつかなくなってしまう。
だから、「手放せない自分」を責めないで。
それは、心のどこかで「今はまだ早い」と知っているということ。
瞑想とは、なにかを“強制的に切り離す”ことではなく、
“そっと、置いてみる”くらいの温度でもいいのだと思う。
思考にしがみついてしまう日も、
そのしがみつきごと、自分の一部として抱いてあげてほしい。
不安が教えてくれる「触れてほしい領域」
静けさの中で現れる“不安”──
それは、あなたの中に潜んでいた「まだ触れていなかった感情」かもしれない。
わたしたちは普段、「前に進まなきゃ」「しっかりしなきゃ」と思って、
たくさんの気持ちを置き去りにしてしまう。
それは日常を生きるうえで必要な“切り離し”であり、
その選択がなければ、前に進めなかった時期もあったはず。
でも、瞑想のように“静けさ”に包まれる時間が訪れると、
その置き去りにしていたものたちが、
まるで引き出しからそっと顔を出すように現れることがある。
「わたし、あのとき本当は悔しかったんだ」
「ちゃんと傷ついていたのに、強がってばかりだった」
「何も言えなかった自分が、ずっとここにいた」
そんな感情たちは、癒されることなく、
どこか奥に閉じ込められていたのかもしれない。
だから、不安というかたちで“現れてくれた”のだとしたら──
それは「もう一度、わたしに気づいて」と
内側の声が届けてくれた、静かなメッセージなのかもしれない。
不安は、敵ではない。
わたしたちを脅かす存在ではなく、
むしろ「触れてほしい領域」への扉をそっと開けてくれる、心の案内人。
痛みや怖れを感じたとき、
「それは、どんな記憶につながっている?」
「この不安の奥に、何がある?」
と問いかけてみてほしい。
すぐに答えは出なくても大丈夫。
問いを抱えたまま過ごす時間こそが、
心の深部に静かに光を届けてくれるのだから──
向いていないのではなく、“合っていない方法”かも
「瞑想をすると逆に苦しくなる」
「集中できない自分が、情けなく思えてしまう」
──そんなふうに感じたとき、多くの人がまず疑うのは「自分の適性」だ。
「わたし、瞑想に向いてないのかも」
「精神力が足りないのかな」
「感情が多すぎて、静まらない……」
けれど、その違和感の正体は──
“あなたが悪い”のではなく、方法が合っていなかっただけかもしれない。
瞑想にも、いろいろなスタイルがある。
座って呼吸に集中するものもあれば、
音楽を聴きながらの瞑想、歩きながらの瞑想、
香りや光を取り入れる感覚系のアプローチだってある。
たとえば、内省の傾向が強い人は、
静寂の中にいると、かえって“思考の迷宮”に入り込んでしまうことがある。
そんなときには、目を閉じる代わりに「景色を眺めながら意識をゆるめる」方が
心が落ち着くこともある。
また、HSP気質のある人は、
音や温度、周囲の気配に敏感だからこそ、
「自分だけの安心空間」が整っていないと、逆に不安が増すことも。
つまり、瞑想が合うか合わないか以前に、
“どんな環境・手法・距離感なら、心が休まるか”を探っていくことが大切なんだ。
向いていないのではなく、
まだ“あなたの心にちょうどいいやり方”に出会っていないだけ。
瞑想は、「この方法が正解」と決められるものじゃない。
それぞれの心が、それぞれの速度で、静けさにふれていけるように。
その柔らかさこそが、本来の“癒し”なのかもしれない。
「深呼吸すら怖い日」があっていい
「落ち着こう」「深呼吸しよう」──
そんな言葉が、かえってつらく感じるときがある。
呼吸が浅くなっていると気づいて、
深く吸おうとしても、なぜか胸がつかえる。
喉の奥が詰まるような、息をするだけで苦しくなるような。
そんな“焦り”が積み重なって、ますます息ができなくなる。
「呼吸すらうまくできない自分」に、不安と自己否定が重なっていく。
それは、心が緊張と警戒のなかにある証かもしれない。
だけど、そんな日があっても、いいんだよ。
「瞑想すれば楽になる」
「呼吸を整えれば心が安らぐ」
たしかに、それは真実かもしれない。
でもその“真実”は、いつだって“今のわたし”に当てはまるとは限らない。
むしろ、「深呼吸すら怖い日」があるということは、
それだけ繊細に、自分の状態を感じ取っている証拠。
大事なのは、「その不安を消すこと」ではなく、
「その不安と、どう一緒にいられるか」。
呼吸が苦しいなら、無理に深く吸わなくてもいい。
ほんの少し、喉のあたりに風を通すだけでも、十分。
息を吐けないなら、ただ“息を止めている”自分を感じるだけでもいい。
「できないこと」を責めるのではなく、
“今ここにある感覚”をそのまま感じて、抱いてあげる。
呼吸も、瞑想も、癒しも──
いつでも「やさしさ」から始めていい。
書く/歩く/香りを感じる──“別ルート”の瞑想法
「目を閉じて座る」──
それだけが、瞑想のかたちじゃない。
もし、じっとしていると逆にざわざわしてしまうなら。
もし、静寂が“怖い”と感じる日があるなら。
瞑想の入り口を、別の扉から探してみてもいい。
たとえば──
ペンを握って、思うままに言葉を書いていくこと。
そこには、「書く瞑想」と呼ばれるくらい、
内面に集中する力が宿っている。
何も考えずに、ただ文字を並べていくうちに、
ふと、心の奥にあった気持ちに気づいたり、
涙がにじんだりすることがある。
また、歩くことも瞑想になりうる。
“歩く瞑想(walking meditation)”という実践があるように、
ひとつひとつの足音に意識を向けながら、
風の感触や空気のにおいを感じて歩く──
それだけで、心の流れが変わる瞬間がある。
香りも、いい。
お気に入りのアロマオイルやお香を焚いて、
目を閉じずとも、ただ“香りに包まれるだけ”で、
安心がじんわりと心をほぐしてくれることもある。
「わたしが心を整えるには、どんな方法が合うだろう?」
問いをそこに置いて、試してみてほしい。
“正しい瞑想”ではなく、“やさしい瞑想”。
心が「これなら大丈夫」と思えるアプローチから始めることが、
癒しの入り口になる。
回り道に見えても、それが“あなたにとっての最短距離”かもしれない。
不安の中にも、「見つけてほしい自分」がいる
すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。
瞑想の中でざわついてしまった日も、
静けさに不安を感じてしまった時間も、
すべては「心が今、何かを伝えようとしている証」だった。
わたしたちは、つい“良い状態”や“落ち着いた心”ばかりを求めてしまう。
けれど──
不安や揺らぎのなかにも、「まだ見ぬ自分」がいる。
その存在は、静かにそっと手を振っていたのかもしれない。
「落ち着けなかった瞑想」も、
「苦しくなった深呼吸」も、
すべてはあなたの内側からの問いかけだった。
だから、怖くなってしまった日があっても大丈夫。
“心の奥に近づいた”からこそ、
そのざわつきは生まれたのだと──
そう思って、そっと受けとめてみてほしい。
答えを出さずとも、今日、あなたが一歩立ち止まったこと。
その静かな勇気が、
きっと未来のあなたの支えになる。
あなたにとっての“瞑想”が、
少しでもやさしい時間へと変わっていきますように。