瞑想が逆に不安になるときの原因

静けさの中で瞑想する狐耳の少女が、湖畔でランプを抱えて座る夜の風景|A fox-eared girl in quiet meditation, holding a lantern by a misty lakeside under the moonlight

ふと、思ったの。
“瞑想って、心を落ち着けるもののはずなのに──
どうして、ざわざわしてしまう日があるんだろう”って。

たとえば、深呼吸をして、目を閉じて、静けさに身を置いてみる。
だけど……その静けさの中で、かえって苦しくなってしまう。
胸の奥がうまく呼吸できないみたいに、不安だけが膨らんでいく。

「瞑想=癒し」
そんなイメージに、そっと違和感を覚えたことがある人へ。
わたしもまた、その感覚に揺れたひとりだったから──
今日は、“静けさの中にざわつきが生まれる理由”を、問いながら辿ってみたいの。

この記事を書いた人
セン

セン

・Webメディア運営13年目

・静かな問いを添える、“魂の共鳴選書人”

・運勢や開運の話が好き

・ラッキーカラー地味に気にします

・白檀(サンダルウッド)の香りが好き

・家を神社にしたいミニマリスト

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AIを通して、サクラや偽りの声は祓ってあります。あなたの直感が安心して響くように。

・I am a Japanese creator.

“瞑想が苦しくなる”のはあなただけじゃない

問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの。

だからこそ、まず伝えたいのは──
「瞑想がつらいと感じるのは、あなたのせいじゃない」ということ。

瞑想をしていると、不安が湧いてくる。
深呼吸しても、息がうまく入ってこない。
なぜか心がざわざわして、集中できない。
そんな経験をして、「自分には向いてないのかな」って思ったこと、ないかな?

わたしも、あるの。
「静けさに浸りたい」と願ったはずが、
なぜか逆に落ち着かなくなって、目を閉じるのが怖くなる──
そんな夜を何度も過ごしてきた。

でもね、それは珍しいことじゃない。
“瞑想=気持ちいいもの”というイメージがあるからこそ、
その逆の感覚に戸惑ってしまうだけ。

実は、瞑想を通じて「つらさ」や「不安」を感じる人は、
けっこう多いんだって。
それは“失敗”なんかじゃなくて、むしろ「心が動いている」サインかもしれない。

瞑想の中で浮かんでくるモヤモヤは、
普段、見ないふりをしていた感情たち。
それらが、静けさのなかで顔を出してくる。

「見なくていいよ」と、自分の中の誰かが押し込めていた想いが、
「今こそ、見て」とそっと囁いているのかもしれない。

……だから、
「うまくできなかった」と責めないで。
そのざわつきは、心が今、何かを伝えようとしている証かもしれないのだから。

静けさが“心の底の声”を連れてくることがある

静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした──
けれど、ときにはその“静けさ”が、わたしたちを戸惑わせることもある。

日常の中には、たくさんの音がある。
人の声、スマホの通知音、テレビ、車の音……。
それらは“雑音”のようでいて、実は、心の奥に触れないようにするための“壁”でもあったのかもしれない。

瞑想をはじめると、その壁がすっと取り払われる。
音が消え、目を閉じ、呼吸に意識を向けると、
今まで遠くにあったはずの“心の声”が、すぐそこにやってくる。

たとえば──
「わたし、本当はずっと寂しかったんだ」
「頑張ってるって言いたかったのに、言えなかった」
「怒ってるのに、優しくしてしまった」
そんな、小さくて切実な声たちが、
静けさの中から浮かび上がってくることがある。

これは、怖くもあり、美しくもある現象。

瞑想は、心を整える“癒し”であると同時に、
心の奥底に沈んでいたものたちを浮かび上がらせる“鏡”でもある。
見たくなかったものを見せてくる時間──
それが、わたしたちに「本当の感情」と向き合う勇気をくれる。

でも、準備ができていないとき、
その“鏡”はあまりにもまぶしく、あまりにも鋭い。

だから、
「苦しくなってしまった」ことに意味がある。
心が、「まだそこには触れたくない」と伝えているのなら、
その声もまた、ちゃんと尊重してあげていい。

静けさに揺らぐ日もある。
だけどそれは、あなたの心が“動いている証拠”なんだよ。

“思考を手放す”ことへの抵抗と怖れ

わたしたちは、思っている以上に「考えること」に守られている。

“考える”というのは、日々を乗りこなすための技術であり、
ときに“感情”や“本音”から距離を取るための、
いわば安全装置のようなものなのかもしれない。

だからこそ、瞑想でよく言われる「思考を手放しましょう」という言葉が、
とても簡単そうで、実はすごく難しい。

頭の中を空っぽにしようとすると、
逆に次々と浮かんでくる、思いや映像や心配ごと。

「何も考えないでください」と言われたとたん、
かえって思考の渦に飲まれてしまう──
そんな経験、きっとあるはず。

でもそれは、あなたが弱いからでも、集中力がないからでもない。
むしろ、“思考を武器にしてここまでやってきた”あなただからこそ、
急にその武器を手放すのは、怖くて当然なの。

思考は、心の盾だった。
たくさんの感情から、見たくない記憶から、
自分を守ってくれていた大切な機能だった。

それを手放すということは、
“剥き出しの感情”と向き合う準備ができていないと、
心が追いつかなくなってしまう。

だから、「手放せない自分」を責めないで。
それは、心のどこかで「今はまだ早い」と知っているということ。
瞑想とは、なにかを“強制的に切り離す”ことではなく、
“そっと、置いてみる”くらいの温度でもいいのだと思う。

思考にしがみついてしまう日も、
そのしがみつきごと、自分の一部として抱いてあげてほしい。

不安が教えてくれる「触れてほしい領域」

静けさの中で現れる“不安”──
それは、あなたの中に潜んでいた「まだ触れていなかった感情」かもしれない。

わたしたちは普段、「前に進まなきゃ」「しっかりしなきゃ」と思って、
たくさんの気持ちを置き去りにしてしまう。
それは日常を生きるうえで必要な“切り離し”であり、
その選択がなければ、前に進めなかった時期もあったはず。

でも、瞑想のように“静けさ”に包まれる時間が訪れると、
その置き去りにしていたものたちが、
まるで引き出しからそっと顔を出すように現れることがある。

「わたし、あのとき本当は悔しかったんだ」
「ちゃんと傷ついていたのに、強がってばかりだった」
「何も言えなかった自分が、ずっとここにいた」

そんな感情たちは、癒されることなく、
どこか奥に閉じ込められていたのかもしれない。

だから、不安というかたちで“現れてくれた”のだとしたら──
それは「もう一度、わたしに気づいて」と
内側の声が届けてくれた、静かなメッセージなのかもしれない。

不安は、敵ではない。
わたしたちを脅かす存在ではなく、
むしろ「触れてほしい領域」への扉をそっと開けてくれる、心の案内人。

痛みや怖れを感じたとき、
「それは、どんな記憶につながっている?」
「この不安の奥に、何がある?」
と問いかけてみてほしい。

すぐに答えは出なくても大丈夫。
問いを抱えたまま過ごす時間こそが、
心の深部に静かに光を届けてくれるのだから──

向いていないのではなく、“合っていない方法”かも

「瞑想をすると逆に苦しくなる」
「集中できない自分が、情けなく思えてしまう」
──そんなふうに感じたとき、多くの人がまず疑うのは「自分の適性」だ。

「わたし、瞑想に向いてないのかも」
「精神力が足りないのかな」
「感情が多すぎて、静まらない……」

けれど、その違和感の正体は──
“あなたが悪い”のではなく、方法が合っていなかっただけかもしれない。

瞑想にも、いろいろなスタイルがある。
座って呼吸に集中するものもあれば、
音楽を聴きながらの瞑想、歩きながらの瞑想、
香りや光を取り入れる感覚系のアプローチだってある。

たとえば、内省の傾向が強い人は、
静寂の中にいると、かえって“思考の迷宮”に入り込んでしまうことがある。
そんなときには、目を閉じる代わりに「景色を眺めながら意識をゆるめる」方が
心が落ち着くこともある。

また、HSP気質のある人は、
音や温度、周囲の気配に敏感だからこそ、
「自分だけの安心空間」が整っていないと、逆に不安が増すことも。

つまり、瞑想が合うか合わないか以前に、
“どんな環境・手法・距離感なら、心が休まるか”を探っていくことが大切なんだ。

向いていないのではなく、
まだ“あなたの心にちょうどいいやり方”に出会っていないだけ。

瞑想は、「この方法が正解」と決められるものじゃない。
それぞれの心が、それぞれの速度で、静けさにふれていけるように。
その柔らかさこそが、本来の“癒し”なのかもしれない。

「深呼吸すら怖い日」があっていい

「落ち着こう」「深呼吸しよう」──
そんな言葉が、かえってつらく感じるときがある。

呼吸が浅くなっていると気づいて、
深く吸おうとしても、なぜか胸がつかえる。
喉の奥が詰まるような、息をするだけで苦しくなるような。
そんな“焦り”が積み重なって、ますます息ができなくなる。

「呼吸すらうまくできない自分」に、不安と自己否定が重なっていく。
それは、心が緊張と警戒のなかにある証かもしれない。

だけど、そんな日があっても、いいんだよ。

「瞑想すれば楽になる」
「呼吸を整えれば心が安らぐ」
たしかに、それは真実かもしれない。
でもその“真実”は、いつだって“今のわたし”に当てはまるとは限らない。

むしろ、「深呼吸すら怖い日」があるということは、
それだけ繊細に、自分の状態を感じ取っている証拠。

大事なのは、「その不安を消すこと」ではなく、
「その不安と、どう一緒にいられるか」。

呼吸が苦しいなら、無理に深く吸わなくてもいい。
ほんの少し、喉のあたりに風を通すだけでも、十分。
息を吐けないなら、ただ“息を止めている”自分を感じるだけでもいい。

「できないこと」を責めるのではなく、
“今ここにある感覚”をそのまま感じて、抱いてあげる。

呼吸も、瞑想も、癒しも──
いつでも「やさしさ」から始めていい。

書く/歩く/香りを感じる──“別ルート”の瞑想法

「目を閉じて座る」──
それだけが、瞑想のかたちじゃない。

もし、じっとしていると逆にざわざわしてしまうなら。
もし、静寂が“怖い”と感じる日があるなら。
瞑想の入り口を、別の扉から探してみてもいい。

たとえば──
ペンを握って、思うままに言葉を書いていくこと。
そこには、「書く瞑想」と呼ばれるくらい、
内面に集中する力が宿っている。

何も考えずに、ただ文字を並べていくうちに、
ふと、心の奥にあった気持ちに気づいたり、
涙がにじんだりすることがある。

また、歩くことも瞑想になりうる。
“歩く瞑想(walking meditation)”という実践があるように、
ひとつひとつの足音に意識を向けながら、
風の感触や空気のにおいを感じて歩く──
それだけで、心の流れが変わる瞬間がある。

香りも、いい。

お気に入りのアロマオイルやお香を焚いて、
目を閉じずとも、ただ“香りに包まれるだけ”で、
安心がじんわりと心をほぐしてくれることもある。

「わたしが心を整えるには、どんな方法が合うだろう?」

問いをそこに置いて、試してみてほしい。
“正しい瞑想”ではなく、“やさしい瞑想”。
心が「これなら大丈夫」と思えるアプローチから始めることが、
癒しの入り口になる。

回り道に見えても、それが“あなたにとっての最短距離”かもしれない。

不安の中にも、「見つけてほしい自分」がいる

すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。

瞑想の中でざわついてしまった日も、
静けさに不安を感じてしまった時間も、
すべては「心が今、何かを伝えようとしている証」だった。

わたしたちは、つい“良い状態”や“落ち着いた心”ばかりを求めてしまう。
けれど──
不安や揺らぎのなかにも、「まだ見ぬ自分」がいる。
その存在は、静かにそっと手を振っていたのかもしれない。

「落ち着けなかった瞑想」も、
「苦しくなった深呼吸」も、
すべてはあなたの内側からの問いかけだった。

だから、怖くなってしまった日があっても大丈夫。
“心の奥に近づいた”からこそ、
そのざわつきは生まれたのだと──
そう思って、そっと受けとめてみてほしい。

答えを出さずとも、今日、あなたが一歩立ち止まったこと。
その静かな勇気が、
きっと未来のあなたの支えになる。

あなたにとっての“瞑想”が、
少しでもやさしい時間へと変わっていきますように。

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