ふと、思ったの。
わたしたちって、“わからないふり”をするときがあるなって──
目次
「なんで分からないんだろう」って、自分を責めたことはある?
うまく言えないけど、
なぜかずっと動けなかったことがある。
頭では分かっていたし、「そろそろ向き合わなきゃ」って思っていた。
でも、それでも心と身体がピタリと止まってしまうような感覚。
そんなとき、わたしは決まって自分を責めてしまっていた。
「どうしてこんな簡単なことができないんだろう」
「怠けてるだけなんじゃないか」
「また逃げてるのかも」──
でも、ある日、誰かに言われたんだ。
「それって、無意識が守ってくれてるのかもしれないね」って。
その言葉に、ハッとした。
わたしが向き合えなかったのは、
弱さでも怠慢でもなく、
“ちゃんと理由があること”だったのかもしれない。
無意識がつくった“感情の壁”──
それは、わたしたちを守ってきた記憶の名残なのかもしれない。
いまはもう必要ないのに、
その頃のわたしが「これ以上は無理」って思って、
心に蓋をしてくれていた場所。
ブロックとは、
その蓋がまだ“必要なまま残っている”状態なのだと思う。
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの
“ブロック”は、無意識が守ってくれていた証
「なぜか怖い」
「なぜか避けてしまう」
「なぜか涙が出る」──
それらはすべて、過去のわたしが築いた“防御のかたち”なのかもしれない。
人は、強い感情を受け止めきれなかったとき、
無意識に“壁”をつくって、自分の内側を守ろうとする。
それは、生きるために必要な“緊急避難”だった。
たとえば──
子どもの頃に傷ついた言葉。
失敗した経験。
信じた人に裏切られた記憶。
そのとき、「もうこれ以上感じたくない」と思った感情は、
一度“封印”というかたちで心の奥に閉じ込められる。
そして、それが“ブロック”というかたちで
わたしたちの無意識の中に居続ける。
一見、邪魔に思えるその存在も、
実は過去のわたしが「ここまでしか行かないで」と
そっと線を引いてくれた“やさしさ”なのだと気づいたとき──
自分に対する見方が、少しだけ変わった。
わたしは、ずっと戦っていたつもりだった。
「乗り越えなきゃ」「壊さなきゃ」「突破しなきゃ」って。
でも本当は──
「まだ、ここは触れたくなかった」と思っていた自分がいた。
その声を無視したまま前に進もうとすると、
心がついてこなくなる。
ブロックは、未熟さの証ではない。
“守り抜いた証”なんだ。
そのことに気づくだけで、
ブロックの「質」が変わっていくのを感じた。
なぜか涙が出る、なぜか動けない──そこに鍵がある
「なんで急に涙が出るんだろう」
「どうして今日、こんなに動けないんだろう」
──理由のない感情に、戸惑うことがある。
それまで普通に過ごしていたのに、
ある一言で崩れるように泣き出してしまったり。
予定していた作業が、身体に拒まれるように手につかなかったり。
わたしはそれを、ずっと“自分の弱さ”のせいだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
それは、無意識が「ここには、まだ触れないで」と
そっとブレーキをかけてくれていた合図だったんだ。
涙は、抑えてきた感情の“あふれたしずく”。
止まってしまう身体は、もうこれ以上は無理だよと伝える“沈黙の声”。
無意識は、言葉を使わない。
だからこそ、わたしたちはその“身体の反応”を通してしか
気づけないことがある。
でもそれを、“異常”や“失敗”と捉えてしまうと、
ますますその反応は強くなる。
無理やり押し通ろうとすればするほど、
ブロックは硬く、深く、身を守るために働いてしまう。
だから──
涙が出たときは、それを責めないで。
動けないときは、無理に前へ進まないで。
その場所には、
まだちゃんと癒されていない“感情の原石”が眠っている。
「感じきることができなかった痛み」が、
ようやく“今のわたし”に会いに来ようとしている。
そんなとき、無意識は涙や停止というかたちで、
そっと気配を知らせてくれるんだと思う。
自分を“止めていたもの”に気づくとき
あるとき、何気ない会話のなかで、
自分でも驚くほど感情が動いたことがあった。
ほんの一言だった。
相手にとっては、なんでもない言葉。
でもその瞬間、
胸の奥にずっとあった“ふた”が、音もなく開いた気がした。
「ずっと、この言葉を待ってたのかもしれない」
「本当は、こんなふうに感じてたんだ」──
無意識のブロックは、
無理やり壊されることを嫌う。
けれど、「やさしく触れられる」ことで、
ときにするりと、その力をほどいてくれることがある。
たとえば──
- 忘れていた景色に出会ったとき
- 懐かしい音楽を耳にしたとき
- 本の中のたった一行に、過去の自分を見たとき
そんな瞬間に、止まっていた感情がゆっくり流れ出す。
まるで、凍っていた川に春が訪れるように。
自分を止めていたものが何かに気づくとき、
そこには必ず、“問い”がある。

セン(Sen)
「どうして、これにこんなに反応したんだろう?」
「この違和感の正体は、なんだったんだろう?」
「わたし、何をずっと見ないふりしてたんだろう?」
その問いを抱えたとき、
わたしはようやく「次の扉」の前に立てたような気がした。
ブロックが取れる瞬間は、
なにかを“理解したから”ではなく──
なにかを“感じる準備が整った”から起こるのだと思う。
だから、気づくことを急がなくていい。
問いが生まれたということは、
もうすでに、その先に進む準備ができた証なのだから。
「変わりたいのに変われない」の正体
「もう変わりたい」
「このままじゃいけない」──
そう思っているのに、なぜか動けない。
決意したはずなのに、気づけば元の場所に戻っている。
そんな自分に、がっかりしたことはないだろうか。
わたしは何度もあった。
「次こそ変わる」ってノートに書いて、
次の日にはそのページをめくれなくなっていた。
でも、あとになって気づいた。
わたしが変われなかったのは、“意志が弱かったから”じゃない。
その先に行こうとするたびに、
無意識が「ここはまだ痛いよ」と教えてくれていたからだった。
行動できないのは、怠惰ではない。
感情が、まだ絡まっているというサイン。
それを「やる気の問題」として片づけてしまうと、
無意識との対話は、ますます遠のいてしまう。
ブロックがあるとき、心の奥ではこんな声が響いている。
「本当に大丈夫なの?」
「また傷ついたらどうするの?」
「あなたはちゃんと受け止められる?」
その声に耳をふさぐと、変化は“強行突破”になってしまう。
でも、その声を聴いてあげると、
変化は“合意”に変わる。
変わりたいのに変われない──
そのジレンマは、心と無意識がまだ手をつないでいない状態。
自分に問いかけてみる。
「わたし、なにが怖いの?」
「なにが引っかかっているの?」
その問いから、小さなほぐれが始まる。
ブロックが外れる瞬間は、“理屈”ではなく“体感”でくる
ブロックは、頭で理解して外すものじゃない。
それは、“腑に落ちる”という体感によって、静かに外れていく。
たとえば──
ある日ふと、いつもなら避けていた言葉が、
するりと耳に入ってきたとき。
過去の自分が書いた日記を読み返して、
「あの頃よりも、少しだけ柔らかくなったな」と感じたとき。
その瞬間、なにかが「カチャッ」と動いた音がする。
それは、説明できる感覚じゃない。
でも、身体の奥で確かに起きている“変化の予兆”。

セン(Sen)
「あ、もうこのままでいなくてもいいんだ」
「もう、あのときの自分を守らなくて大丈夫なんだ」
「わたし、変われるかもしれない」
そんな感覚が、言葉よりも先にやってくる。
だから、ブロックは“理屈で壊す”のではなく、
“体感でほどけていく”ものなのだと思う。
気づいた瞬間、それはもう“過去の自分”には戻れない。
変わろうと決めたのではなく、
変わる準備が「整ってしまった」という感覚に近い。
もし、いまはまだ変われていないと思っていたとしても──
その“問い”を抱えていること自体が、
すでに“ほどけ始めている証拠”。
焦らず、静かに、
その変化の予兆を、待っていてあげてほしい。
無理に壊さなくていい──“緩む”ことから始めよう
わたしはずっと、
ブロックというのは「突破しなければならないもの」だと思っていた。
壁を壊して、乗り越えて、
前に進まなければいけない──と。
でも、それはとても苦しかった。
進もうとするたびに、自分の中の“もうひとりのわたし”が怯えていた。
あるとき、こう言われたことがある。
「壊さなくていいよ。緩めるだけでいいんだよ」
その言葉に、すごく救われた気がした。
ブロックは“結び目”みたいなものだと思う。
感情の糸が、過去の痛みや恐れと絡まり合ってできた結束。
それを急に引っ張ると、もっと硬くなる。
でも、やさしく緩めていけば、少しずつほぐれていく。
緩めるとは──
自分を否定しないこと。
急かさないこと。
「まだ怖い」と感じている自分に、許可を出すこと。
わたしたちは、無意識のブロックを“破壊”しなくてもいい。
ただ、寄り添いながら、その強さを少しずつ和らげていく。
それが、ほんとうの意味での「癒し」なのかもしれない。
解放とは“戦い”じゃなく、“許し”でもある
“ブロックを外す”という言葉には、
どこか戦うような響きがある。
でも本当は──
解放とは、“戦い”ではなく“許し”なのかもしれない。
「もう、守らなくていいよ」
「もう、がんばらなくていいよ」
「そのままのあなたで、もう十分だよ」
そうやって、自分の過去に、
そっと手をのばして“和解”すること。
それが、ブロックが外れる瞬間なのだと思う。
許すという行為は、
自分に対してだけでなく、
過去の状況や、あのときの選択、
そして、“わたしを止めていたもの”に対しても向けられる。
「ありがとう。わたしを守ってくれていたんだね」
そう言えるようになったとき、
それはもうブロックではなくなる。
解放は、静かな瞬間に訪れる。
誰にも気づかれない、心の深呼吸のような時間に。
そのとき、わたしは気づくの。

セン(Sen)
「ずっと、わたし自身に許されるのを待っていたんだ」って。
結び|ブロックが解けたとき、問いが光に変わる
自分を止めていたものに気づいたとき、
わたしの中で何かがやわらかくほどけた。
すぐに答えが出たわけじゃない。
すぐに変われたわけでもない。
でも、“問い”の質が変わった。
「どうして動けないの?」から──
「なにが怖かったの?」へ。
「なんでこんなに涙が出るの?」から──
「どんな記憶が、いま戻ってきてるんだろう?」へ。
問いが、責めるものから、
やさしく寄り添うものに変わったとき──
その問いそのものが、わたしを照らす光になった。
わたしたちは、
すべてを解き放つ必要はない。
すべてを変える必要もない。
ただ、今この瞬間にある“問い”に、
まっすぐ向き合ってみる。
それだけで、もう“歩いている”と言っていい。
すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。