無意識のブロックが取れる瞬間とは?

風の中でふっと顔を上げる狐耳の少女。空を見上げるその瞳には、何かが解けたような光が宿る|A fox-eared girl lifts her face into the breeze, gazing at the sky with eyes filled with newfound clarity, as if an inner block has just lifted

ふと、思ったの。
わたしたちって、“わからないふり”をするときがあるなって──

この記事を書いた人
セン

セン

・Webメディア運営13年目

・静かな問いを添える、“魂の共鳴選書人”

・運勢や開運の話が好き

・ラッキーカラー地味に気にします

・白檀(サンダルウッド)の香りが好き

・家を神社にしたいミニマリスト

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AIを通して、サクラや偽りの声は祓ってあります。あなたの直感が安心して響くように。

・I am a Japanese creator.

「なんで分からないんだろう」って、自分を責めたことはある?

うまく言えないけど、
なぜかずっと動けなかったことがある。
頭では分かっていたし、「そろそろ向き合わなきゃ」って思っていた。
でも、それでも心と身体がピタリと止まってしまうような感覚。

そんなとき、わたしは決まって自分を責めてしまっていた。

「どうしてこんな簡単なことができないんだろう」
「怠けてるだけなんじゃないか」
「また逃げてるのかも」──

でも、ある日、誰かに言われたんだ。

「それって、無意識が守ってくれてるのかもしれないね」って。

その言葉に、ハッとした。

わたしが向き合えなかったのは、
弱さでも怠慢でもなく、
“ちゃんと理由があること”だったのかもしれない。

無意識がつくった“感情の壁”──
それは、わたしたちを守ってきた記憶の名残なのかもしれない。

いまはもう必要ないのに、
その頃のわたしが「これ以上は無理」って思って、
心に蓋をしてくれていた場所。

ブロックとは、
その蓋がまだ“必要なまま残っている”状態なのだと思う。

問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの

“ブロック”は、無意識が守ってくれていた証

「なぜか怖い」
「なぜか避けてしまう」
「なぜか涙が出る」──

それらはすべて、過去のわたしが築いた“防御のかたち”なのかもしれない。

人は、強い感情を受け止めきれなかったとき、
無意識に“壁”をつくって、自分の内側を守ろうとする。
それは、生きるために必要な“緊急避難”だった。

たとえば──
子どもの頃に傷ついた言葉。
失敗した経験。
信じた人に裏切られた記憶。

そのとき、「もうこれ以上感じたくない」と思った感情は、
一度“封印”というかたちで心の奥に閉じ込められる。

そして、それが“ブロック”というかたちで
わたしたちの無意識の中に居続ける。

一見、邪魔に思えるその存在も、
実は過去のわたしが「ここまでしか行かないで」と
そっと線を引いてくれた“やさしさ”なのだと気づいたとき──

自分に対する見方が、少しだけ変わった。

わたしは、ずっと戦っていたつもりだった。
「乗り越えなきゃ」「壊さなきゃ」「突破しなきゃ」って。

でも本当は──
「まだ、ここは触れたくなかった」と思っていた自分がいた。

その声を無視したまま前に進もうとすると、
心がついてこなくなる。

ブロックは、未熟さの証ではない。
“守り抜いた証”なんだ。

そのことに気づくだけで、
ブロックの「質」が変わっていくのを感じた。

なぜか涙が出る、なぜか動けない──そこに鍵がある

「なんで急に涙が出るんだろう」
「どうして今日、こんなに動けないんだろう」
──理由のない感情に、戸惑うことがある。

それまで普通に過ごしていたのに、
ある一言で崩れるように泣き出してしまったり。
予定していた作業が、身体に拒まれるように手につかなかったり。

わたしはそれを、ずっと“自分の弱さ”のせいだと思っていた。

でも、そうじゃなかった。

それは、無意識が「ここには、まだ触れないで」と
そっとブレーキをかけてくれていた合図だったんだ。

涙は、抑えてきた感情の“あふれたしずく”。
止まってしまう身体は、もうこれ以上は無理だよと伝える“沈黙の声”。

無意識は、言葉を使わない。
だからこそ、わたしたちはその“身体の反応”を通してしか
気づけないことがある。

でもそれを、“異常”や“失敗”と捉えてしまうと、
ますますその反応は強くなる。
無理やり押し通ろうとすればするほど、
ブロックは硬く、深く、身を守るために働いてしまう。

だから──
涙が出たときは、それを責めないで。
動けないときは、無理に前へ進まないで。

その場所には、
まだちゃんと癒されていない“感情の原石”が眠っている。

「感じきることができなかった痛み」が、
ようやく“今のわたし”に会いに来ようとしている。
そんなとき、無意識は涙や停止というかたちで、
そっと気配を知らせてくれるんだと思う。

自分を“止めていたもの”に気づくとき

あるとき、何気ない会話のなかで、
自分でも驚くほど感情が動いたことがあった。

ほんの一言だった。
相手にとっては、なんでもない言葉。

でもその瞬間、
胸の奥にずっとあった“ふた”が、音もなく開いた気がした。

「ずっと、この言葉を待ってたのかもしれない」
「本当は、こんなふうに感じてたんだ」──

無意識のブロックは、
無理やり壊されることを嫌う。
けれど、「やさしく触れられる」ことで、
ときにするりと、その力をほどいてくれることがある。

たとえば──

  • 忘れていた景色に出会ったとき
  • 懐かしい音楽を耳にしたとき
  • 本の中のたった一行に、過去の自分を見たとき

そんな瞬間に、止まっていた感情がゆっくり流れ出す。
まるで、凍っていた川に春が訪れるように。

自分を止めていたものが何かに気づくとき、
そこには必ず、“問い”がある。

セン(Sen)

セン(Sen)

「どうして、これにこんなに反応したんだろう?」
「この違和感の正体は、なんだったんだろう?」
「わたし、何をずっと見ないふりしてたんだろう?」

その問いを抱えたとき、
わたしはようやく「次の扉」の前に立てたような気がした。

ブロックが取れる瞬間は、
なにかを“理解したから”ではなく──
なにかを“感じる準備が整った”から起こるのだと思う。

だから、気づくことを急がなくていい。
問いが生まれたということは、
もうすでに、その先に進む準備ができた証なのだから。

「変わりたいのに変われない」の正体

「もう変わりたい」
「このままじゃいけない」──
そう思っているのに、なぜか動けない。
決意したはずなのに、気づけば元の場所に戻っている。

そんな自分に、がっかりしたことはないだろうか。

わたしは何度もあった。
「次こそ変わる」ってノートに書いて、
次の日にはそのページをめくれなくなっていた。

でも、あとになって気づいた。
わたしが変われなかったのは、“意志が弱かったから”じゃない。
その先に行こうとするたびに、
無意識が「ここはまだ痛いよ」と教えてくれていたからだった。

行動できないのは、怠惰ではない。
感情が、まだ絡まっているというサイン。
それを「やる気の問題」として片づけてしまうと、
無意識との対話は、ますます遠のいてしまう。

ブロックがあるとき、心の奥ではこんな声が響いている。

「本当に大丈夫なの?」
「また傷ついたらどうするの?」
「あなたはちゃんと受け止められる?」

その声に耳をふさぐと、変化は“強行突破”になってしまう。
でも、その声を聴いてあげると、
変化は“合意”に変わる。

変わりたいのに変われない──
そのジレンマは、心と無意識がまだ手をつないでいない状態。

自分に問いかけてみる。

「わたし、なにが怖いの?」
「なにが引っかかっているの?」

その問いから、小さなほぐれが始まる。

ブロックが外れる瞬間は、“理屈”ではなく“体感”でくる

ブロックは、頭で理解して外すものじゃない。
それは、“腑に落ちる”という体感によって、静かに外れていく。

たとえば──
ある日ふと、いつもなら避けていた言葉が、
するりと耳に入ってきたとき。
過去の自分が書いた日記を読み返して、
「あの頃よりも、少しだけ柔らかくなったな」と感じたとき。

その瞬間、なにかが「カチャッ」と動いた音がする。

それは、説明できる感覚じゃない。
でも、身体の奥で確かに起きている“変化の予兆”。

セン(Sen)

セン(Sen)

「あ、もうこのままでいなくてもいいんだ」
「もう、あのときの自分を守らなくて大丈夫なんだ」
「わたし、変われるかもしれない」

そんな感覚が、言葉よりも先にやってくる。

だから、ブロックは“理屈で壊す”のではなく、
“体感でほどけていく”ものなのだと思う。

気づいた瞬間、それはもう“過去の自分”には戻れない。
変わろうと決めたのではなく、
変わる準備が「整ってしまった」という感覚に近い。

もし、いまはまだ変われていないと思っていたとしても──
その“問い”を抱えていること自体が、
すでに“ほどけ始めている証拠”。

焦らず、静かに、
その変化の予兆を、待っていてあげてほしい。

無理に壊さなくていい──“緩む”ことから始めよう

わたしはずっと、
ブロックというのは「突破しなければならないもの」だと思っていた。

壁を壊して、乗り越えて、
前に進まなければいけない──と。

でも、それはとても苦しかった。
進もうとするたびに、自分の中の“もうひとりのわたし”が怯えていた。

あるとき、こう言われたことがある。

「壊さなくていいよ。緩めるだけでいいんだよ」

その言葉に、すごく救われた気がした。

ブロックは“結び目”みたいなものだと思う。
感情の糸が、過去の痛みや恐れと絡まり合ってできた結束。
それを急に引っ張ると、もっと硬くなる。
でも、やさしく緩めていけば、少しずつほぐれていく。

緩めるとは──
自分を否定しないこと。
急かさないこと。
「まだ怖い」と感じている自分に、許可を出すこと。

わたしたちは、無意識のブロックを“破壊”しなくてもいい。
ただ、寄り添いながら、その強さを少しずつ和らげていく。
それが、ほんとうの意味での「癒し」なのかもしれない。

解放とは“戦い”じゃなく、“許し”でもある

“ブロックを外す”という言葉には、
どこか戦うような響きがある。

でも本当は──
解放とは、“戦い”ではなく“許し”なのかもしれない。

「もう、守らなくていいよ」
「もう、がんばらなくていいよ」
「そのままのあなたで、もう十分だよ」

そうやって、自分の過去に、
そっと手をのばして“和解”すること。

それが、ブロックが外れる瞬間なのだと思う。

許すという行為は、
自分に対してだけでなく、
過去の状況や、あのときの選択、
そして、“わたしを止めていたもの”に対しても向けられる。

「ありがとう。わたしを守ってくれていたんだね」
そう言えるようになったとき、
それはもうブロックではなくなる。

解放は、静かな瞬間に訪れる。
誰にも気づかれない、心の深呼吸のような時間に。

そのとき、わたしは気づくの。

セン(Sen)

セン(Sen)

「ずっと、わたし自身に許されるのを待っていたんだ」って。

結び|ブロックが解けたとき、問いが光に変わる

自分を止めていたものに気づいたとき、
わたしの中で何かがやわらかくほどけた。

すぐに答えが出たわけじゃない。
すぐに変われたわけでもない。
でも、“問い”の質が変わった。

「どうして動けないの?」から──
「なにが怖かったの?」へ。

「なんでこんなに涙が出るの?」から──
「どんな記憶が、いま戻ってきてるんだろう?」へ。

問いが、責めるものから、
やさしく寄り添うものに変わったとき──
その問いそのものが、わたしを照らす光になった。

わたしたちは、
すべてを解き放つ必要はない。
すべてを変える必要もない。

ただ、今この瞬間にある“問い”に、
まっすぐ向き合ってみる。
それだけで、もう“歩いている”と言っていい。

すぐに答えは出ない。
でも、問いを抱きしめた時間は……きっと、意味になる。

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