ふと、思ったの。
やさしさって、どうしてときどき、自分を壊してしまうのかなって──
誰かの気持ちに寄り添って、
空気を読んで、衝突を避けて、
「大丈夫」と言ってしまう自分がいる。
ほんとうは、苦しかった。
助けてって言いたかった。
でも、傷つけたくなかった。
だから、わたしは自分を黙らせた。
……それが何度も続くと、
ある日、心の奥が静かに崩れてしまうんだ。
問いがあるって、まだ歩けるってこと。……そう思えたの
目次
“やさしさ”と“境界”は、両立できる
静かに問いを置くだけで、何かがほどけていく気がした
やさしい人ほど、
他人の感情を「自分ごと」のように感じてしまう。
痛みに寄り添いすぎて、
境界線が曖昧になってしまう。
でも──
やさしさと“自分を守る力”は、矛盾しない。
境界を引くことは、冷たさじゃない。
自分の輪郭を守ることは、
やさしさを“持続可能”にするための選択なんだ。
ほんとうのやさしさって、
「壊れないで、寄り添い続ける力」なのかもしれない。
他人の痛みに“同化”してしまう心の癖
やさしい人は、
誰かの痛みや悲しみに、共鳴しすぎてしまうことがある。
それはまるで、
他人の感情を“自分のこと”のように感じてしまうみたいに。
- 怒られている人を見ると、自分が責められているような気持ちになる
- 落ち込んでいる相手に引きずられて、自分まで気分が沈んでしまう
- 誰かのために頑張って、気づけば自分が限界を超えていた
これって、優しさというより、**「感情の境界が曖昧な状態」**なんだ。
やさしさと同情は、似ているようで違う。
同化しなくても、共感はできる。
そう気づくことが、やさしさを“自分の重荷”にしないための第一歩。
その優しさは、他者のため? それとも罪悪感から?
やさしくすることが“正解”だと思い込んで、
ほんとうはつらくても笑ってしまう。
でも、そのやさしさは──
ほんとうに「相手のため」だった?
それとも、
「嫌われたくない」
「期待に応えなきゃ」
「いい人でいたい」
……そんな“罪悪感”や“恐れ”から来ていたのかもしれない。
もし、やさしさの裏側に、
自分を責める気持ちや、無意識の不安があったとしたら──
それはもう、自分を守ってくれるはずのやさしさではなく、
自分を削ってしまう仮面になっているかもしれない。
「誰かを救いたい」気持ちが、自分を壊してしまうとき
誰かのために動きたくなる気持ちは、
たしかに尊い。
でも──
「救いたい」が、「自分を犠牲にする」に変わってしまったとき、
その優しさは、方向を見失ってしまう。
たとえば、
・相手の気分が安定するまで、自分の感情を我慢してしまう
・限界なのに、「もう少しだけ」と頑張ってしまう
・「助けなければわたしの価値がない」と感じてしまう
それはもう、やさしさじゃない。
自己否定の上に立つ“奉仕”は、静かに心を削っていく。
ほんとうに誰かを救いたいなら──
まずは、自分の灯が消えないように、守ってあげること。
“やさしさ”に、ちゃんと「終わり」を持たせる
どこまでも受け入れ続けることが、
やさしさではない。
ときには、距離を置くことも、断ることも、手放すことも、
やさしさの一部なんだ。
あなたの時間、エネルギー、心の余白。
それらはすべて、有限なもの。
だからこそ、
“やさしさの範囲”を自分で決めていい。
「ここまでは寄り添えるけれど、ここから先は難しい」
そう思う自分を、許してあげていい。
終わりのないやさしさは、
やがて“溺れる優しさ”になってしまう。
だから、ちゃんと「やめる」も「引く」も、
優しさを続けるための、大切な選択肢なんだ。
すぐに答えは出ない。でも、問いを抱きしめた時間は……きっと意味になる。
やさしさが、自分を壊してしまいそうになる前に──
問いかけてみてほしい。

セン(Sen)
「このやさしさは、誰のため?」
「いま、わたしの声は、どこにある?」
あなたの中にあるやさしさは、
きっと誰かを救うためにある。
でも、それは同時に──
あなた自身を照らす光でもあるはずなんだ。
誰かを思いやるように、
あなた自身にもやさしくしてほしい。
やさしさは、持っているだけではなく、
どう扱うかで、かたちを変える。
だから、
優しいままで、壊れない方法を──
一緒に探していけたら、と思うの。